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文化3年の「役用記」に神輿大鼓が記録されているので、川之江の太鼓台は
新居浜、西条地方より20年も早くあった。
当時川之江には東予3郡の幕領の本拠があって、海に面した城下町として浦手奉行、
浜庄屋なども置かれ、廻船46艘、大阪渡海船6艘が満船白帆を張って、縦横に内海を勇飛、
自然接触の多い京阪地方の文化を吸収しては郷土に持ち帰ったもので、
大鼓台や関船の如きも、京都の祇園祭りや大阪の天満神祭の影響を多分に受けている。

例えば大阪の天神祭は船渡御で有名であるが、川之江の船渡御もこれを見習ったものと思われるし
同社の神輿太鼓は川之江の太鼓台とそっくりだといわれている。
また川之江の関船は、大阪の天神祭に出す壇尻とお迎船の合体とも考えられるし、
さらに若連中とか年行司などの風習もよく似ているそうである。

かように川之江の太鼓台や関船はおよそ180年以前、いち早く廻船問屋らの手によって
京阪地方より持ち帰られたことが想像される。
「祭礼行列次第」によると、当時川之江には神輿太鼓が5台あったが、
そのうち4台までが浜持ちである。
文化の導入者浜が、如何に勢力がよかったかがこれによっても察することができる。

もともと太鼓台や関船は素朴な信仰から発達したものである。
初めは車の上に長い柱のようなものを立てていた。
この柱には神霊がつくもの、つまり神を依らしめる神座であると考えられていた。
これが後に鉾や槍や旗などに、変わってきたのである。
すなわち神の座となる柱の下に屋台を置き周囲を美しく飾って神を迎え、
これを曳いて祭場へ移動して行く行事が祭なのである。
いまも川之江の関船には毛槍のようなものが立っており、
太鼓台の七じょうの上には町名を書いた旗をたてたり、とんぼをつけたりする。
これも一種の神を呼ぶ柱の名残りと考えてよい。

壇尻というのは山車(だし)の方言訛したものと言われている。
御輿は屋根と胴と台の3部からなっており、これを壇尻化したものが昔の御輿太鼓、
いわゆる現在の太鼓台であり関船である。
要するに大鼓台や関船は、初めは神を依らしめる柱によって
神霊を勧請し歓喜と感謝に浸りつつ、かき廻し曳き廻したものであったが、
今日では、そのような信仰的なものがなくなって
ただ単にその絢爛豪華さを他に誇示し祭の雰囲気と酒に酔って騒ぐ余興物と化してしまった。

お宮にはたいてい神杉とか神木とかがあって注連が張ってあったりする。
古い信仰には神霊がいつもいるわけではなく、お祭のときのみ神木に憑いて
降りて来るものと考えていた。そこで祭が来ると神棚や祭壇を作って迎えたものである。
ところが神殿が立派に造営されるようになってからは、
神様は常に社殿の奥におられるのだという考え(信仰)に変わってきた。
従ってお祭りには神は扉を開いて町内を巡幸すると信じ、
みたまをミコシに遷し行列を作ってお旅所へお供をする形となった。
かくて、もとは神の乗物(神座)であったミコシ太鼓やお船ダンジリが、
神を喜ばせ楽しませるお供の道具と変わっていったのである。
このような変遷をたどって、祭りは神に仕えると共に人にも仕えるものとなり、
働く人々の骨休めや気晴らしの日としてレクリエーションの意味も加わり、
踊り、角力、獅子舞などの芸能を生み出した。

昔の人は神様の神座であるミコシや太鼓台をかくことは、
大きな栄誉であり誇りであり『われ神と共にあり』との歓喜をもっていた。
また、これに奉仕することによって、神の恩恵をも受けられるものと信じていたので
進んでかき手に参加したものである。太鼓台にしても、昔は神の座であり、
その後も神のお供の『ダシ』ものとして祭礼の賑わいの中心であり、
若い娘や観衆の注視を浴びて、かき手には大きな見栄と喜びがあった。
また昔の若衆組とか若連中の組織は強固であったから、かき手は有無なく招集され、
小部落の太鼓台も楽々と動いたものである。

現在ではかき手が集まらない。もはや太鼓台も信仰な面がなくなって
ただ見せるだけのものであるから何処かへ据えて置いたらよかろうとこぼす、
だが、それでもやはり動いている方が面白いという。
しからば太鼓台に車をつけ僅かの人数で動かすほうがよい。
しかし太鼓台は威勢のよい青年たちの大勢の力がかき棒に集中して
生き物の如く動き出すところに力動美があるのだという。

(平成7年10月市報より)