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以下上分町中本町 薦田天譲様の寄稿より抜粋 
(広報かわのえ 平成3年10月1日発行)

昭和5、6年頃、私が小若い衆の一人として太鼓の叩き手をしていた時、本町の中程で「ハリワリセ」を「ヨイサヨイサ」に切り替えた。が、すぐに足の後方をいやという程強くつねり上げられた。驚愕して急いで幕を押し上げてみると「街中でヨイサヨイサやるちゅうことあるかっ。ハリワリセやれ!」と凄い剣幕の青年に睨み付けられた。

即ち、街中では平和的に荘重に押して行く「ハリワリセ」、そして「ヨイサヨイサ」は田舎町と喧嘩の時と決まっていた。


上分の太鼓台のかき方が変わったのは戦時中のこと。国内は戦争一色になり、祭りの太鼓台も、平和的で悠長ムードの「ハリワリセ」を止め交戦的な「ヨイサヨイサ」一本にしようということになり、終戦まで続いた。終戦後は平和ムードになったが、かき手の青年は8年間も「ヨイサ・・・」が続いたのでそれしか知らず、それまでの惰性がまた続いた。それを改めさすべき先輩達も、敗戦のショックで心の余裕も無きまま放心状態が続き、戦後40年余り経った今も、まだ戦争中の傷を引きずったままである。

年に一回しか会えない懐かしい太鼓台も、「ヨイサ」では腹が立って見る気になれず、家の前を通ってもじっと部屋に篭って見に行こうとしなかった残念さは、誰にも分からないであろう。

昨年、寄附を集めて太鼓台を修理した際に「上之町太鼓台の歩み」という本を出した毛利秦一郎氏に太鼓台の代表者を集めてもらって話をし、お陰で少なくとも我が家の前だけは「ハリワリセ」で通ってもらうことができた。私は嬉しくなって70幾才で担き棒にかき付いて隣りの家まで行き、涙が出てきた。

それ、後輩達よ!先輩の伝えを夢おろそかにするなかれ。
先輩より正しく受け継ぎて、更にその後輩達に正しく伝えよ。